2017/04/08(Sat)
○[音楽] Where Are We Now?/David Bowie (その3)
前回の続き、今回も歌詞の解釈ではなくボウイとベルリンの壁の関わりについて書こうと思います。
@Glass Spider Tour
1987年6月にベルリンのブランデンブルク門で3日間に渡って開催されたロックフェスの最終日、ボウイの「 Glass Spider Tour」が開催されました。
このツアーはアルバム「 Never Let Me Down(1987)」の発表にあわせ、これぞ アリーナロックという当時においては過去例のない規模のステージセットを構築して行われました。
このような大規模なステージセットが作れたのも RCAから EMIに移籍し、売れっ子プロデューサーの ナイル・ロジャースを起用し、スターダムへ駆け上がったアルバム「 Let's Dance(1983)」の商業的成功があってのものです。
@Diamond Dogs Tour の失敗
実はこのような巨大ステージでのライブを行ったのはボウイにとっては初めてではありません、過去にもアルバム「 Diamond Dogs(1975)」に伴うツアーも例を見ない規模の大がかりなステージを作り上げています。
ボウイは元々SFの古典であるオーウェル「1984」のミュージカル舞台化を熱望していたのです。
しかし遺族の許可が得られず断念し、自ら「ダイヤモンドの犬」という
核戦争後によるポストアポカリプスを生きる獣人達、そしてコンピューターが支配する全体主義
という物語を作り上げました、
おいそこ「けものフレ〇ズ」とか言うなよ!
そこは死の世界 蒸発を免れたわずかな屍体もやがて腐り果て、血と肉だったものは通路を滴り落ちる 「略奪者の丘」にそびえるビル、1インチほどのシャッターの隙間から 突然変異の怪物がその血走った目で見下ろす、かつてマンハッタンと呼ばれた「飢餓の街」 もうどこにもアメリカの象徴だった自動車の姿はない ネズミほどの蚤が、ネコほどのネズミを吸血する 生き残った1万の民はもはや人の感情を失った獣であり、似通ったもの同士で群れを成す 無人の摩天楼の最上階を自分たちの住処として作り替えていく それはまるでショーウィンドウに野犬の群れが襲いかかるように ミンクやシルバーフォックスの毛皮を剥ぎ取り、そしてレッグウォーマーに作り替える そしてサファイアやひび割れたエメラルドを「群れ」という家族の徽章とする 明日にでも訪れるかもしれない、ダイヤモンドの犬たちの時代だ これはロックンロールなんかじゃない 大量殺戮だ
ボウイちゃんはロックンロールが得意な犬のフレンズなんだね!
最終日を迎えたDavid Bowie Is展でもこのミュージカルの絵コンテとそのムービー、セットのミニチュア、そしてライブ映像が展示されています。
しかしこのツアーはあまりに巨大なセットの移動と設置そして大勢の演者のギャラと費用がかかり過ぎることで、ボウイの財布も悲鳴を上げ全日程を消化することなく打ち切りになってしまいます、あまりの負担に「最終日を終えてセットを焼き払った後はとにかくホッとした」みたいな事が書かれていました。
「Let's Dance」以降は商業主義に走ったという批判は多くて、最近のボウイは聴くに堪えないみたいな話をあちこちで公言する日本のロックミュージシャン様や、もう交通事故で死んだと思わないとやっとれんみたいな批評を書く某ロック雑誌の記者やらようけおりましたが、結局金・銭・マニーがないと成し遂げられない表現をこの時期追い求めていて、この「Glass Spider Tour」は10年かけてようやく「Diamond Dogs Tour」のリベンジを果たしたという事なんでしょう。
ちなみに「Diamond Dogs Tour」の当初の構想としては、毎回ビッグブラザーの住まう摩天楼を模したセットを破壊したいというアイデアがあったそうです。 では「Glass Spider Tour」では何を破壊しようと思ったのか?それは東側の全体主義とその象徴であるベルリンの壁だったのではないでしょうか。
@ベルリンの壁
話を1987年6月に戻しましょう。
このブランデンブルク門の前に作られた巨大なセットは、本来であればステージ前に向けるスピーカーの1/4は後ろ側、つまり壁の反対側の東ベルリンに向けられていました。
そしてコンサートの中盤では東側の全体主義への抵抗を呼びかける "Heroes" を演奏し、そしてメンバー紹介のコーナーでも
壁の向こう側にいる友人達にも多幸を祈るよ(We send our best wishes to our friends who are on the other side of the wall.)
とメッセージも送りました。
この明らかに政治的な意図のあるイベントを東ドイツはもちろん警戒し、東ベルリンは警官隊によって厳重な監視下だったのですがそれでも演奏を聴きに5000人を超える群衆が集まり、最終的には数十人の若者が警官隊に逮捕される暴動に発展します。秘密警察シュタージが撮影した記録映像には
この壁を退けろ(The wall must go!) ブタ野郎(=政権)と一緒に引き摺り下ろせ (Down with the pigs!)
と叫ぶ若者の映像が残されています。
この様子については「 新・映像の世紀 第5集 若者の反乱が世界に連鎖した」が詳しいです。
@レーガン大統領の演説
この騒乱からわずか一週間後、当時のアメリカ大統領であるレーガンが同じブランデンブルク門の前で とある演説をします。
ゴルバチョフさん、この門を開くのです (Mr. Gorbachev, open this gate.) ゴルバチョフさん、この壁を倒すのです! (Mr. Gorbachev, tear down this wall!)
呼びかけの相手は1985年に「ペレストロイカ(改革)」を掲げてソ連共産党書記長の座に就いたゴルバチョフ書記長です。
これより前にベルリンの壁の前で演説したアメリカの大統領はケネディにまで遡ります。
- 共産主義は悪い文明
- 東と西の経済格差こそ自由主義の勝利の証明
- 私もベルリン市民と価値観を共有する一人だ
という演説はレーガンのものよりも有名であり、この広場の名前が ジョン・F・ケネディ広場に変更されてしまったほどです。
実際のところケネディ演説の評価については
- ウィーン会談以後、フルシチョフに国境封鎖を黙認するかのような誤ったメッセージを与えていた(「壁の建設を止める手立てはない」発言)
- その結果フルシチョフは即座に国境封鎖と初期の鉄条網による壁の建設を実行した(ベルリン危機)
- その成功によってキューバに核ミサイル基地建設まで企てることになり全面核戦争の危機まで陥った(キューバ危機)
というケネディの失策を割り引いて考えるべきと思うんですがね。
というのもこの演説では西ベルリンの安全保障についてのみ触れていて、建ってしまった壁については
- おれじゃない
- あいつがやった
- しらない
- すんだこと
という おあしす運動レベルの無責任さだというCIA高官からの批判もあったようです。
まぁキューバ危機で学んだ通り米ソで直接ドンパチやったら世界滅ぶからね、これによって 代理戦争が世界中にまき散らされることになったわけでな…
@次回
ケネディとレーガンのそれぞれの演説の間の1/4世紀の間の冷戦の歴史について、そしてその歴史とボウイの作品の関わりについて書きます。